近年、日本でも〈ムラーノガラス〉と言う言葉がイタリア、ヴェネチアのムラーノ島で制作されたガラス工芸品である事が知られてまいりました。
千年の歴史を誇るムラーノガラスには、数多くの興味深いエピソードがあります。
ヴェネチア共和国の起源は、5世紀に戦禍を逃れたイタリア半島の住民がアドリア海の干潟に住み着いたことから始まります。
近年、日本でも〈ムラーノガラス〉と言う言葉がイタリア、ヴェネチアのムラーノ島で制作されたガラス工芸品である事が知られてまいりました。
千年の歴史を誇るムラーノガラスには、数多くの興味深いエピソードがあります。
ヴェネチア共和国の起源は、5世紀に戦禍を逃れたイタリア半島の住民がアドリア海の干潟に住み着いたことから始まります。
土地の半分が海水に浸るような地に杭を立て、現在もなお世界中から愛される水の都を作り出しました。
現在のヴェネチア人たちの祖先が、いかに賢く努力家であるかが伺えます。
住民は製塩と漁業で暮らしを立てておりましたが、人口の島で麦や家畜を育てることは困難でしょうから、資源が乏しいことは明白です。
賢い共和国政府は、すでに高度なガラス技術を確立していたイスラム諸国からガラス職人ごと技術を取り込み、自国の産業としたのです。
そして商船による貿易に活路を見出して、ガラス製品を輸出し、13世紀には地中海有数の海運国へと発展します。
そして財源となる高度なガラス技術の流出を恐れた共和国政府は、1292年にすべてのガラス職人とその家族を、本島から数キロ離れた小さな島「ムラーノ島」に幽閉するという強引な政策に打って出ました。
バラリン工房に伝わる家系図。獅子のエンブレム(称号)が与えられたことが図で示されている。
強制移住を強いられた職人たちはムラーノ島において、〈ガラス技術に貢献した者には貴族の位を与え、逃亡を謀った者には重罰〉と言うまさに飴と鞭の政策のもと、14世紀からガ17世紀ガラス技術は目覚ましく発展をさせます。そしてヴェネチア共和国は、ルネッサンス期「アドリア海の女王」と謳われ、栄光をほしいままにしたのです。
ムラーノガラスは、基本的に鉛を含まないソーダガラスです。ガラス種が熱いうちに、吹いたり、捩じったり、装飾したりと心に描くデザインを自由自在に成形することができ、それが職人技の見せ所でした。
当時貴族向けのガラスを制作していた職人たちは親方から、〈ワインの重みだけが感じられるワイングラスを作れ〉、すなわち、限りなく無に近く薄く軽やかなグラスを作れと厳しく指導されたそうです。
それまで銀杯などでワインを飲んでいた王侯貴族たちは、軽やかで美しく葡萄色が透けるグラス手に取り、どんな驚いたことでしょう。
“ガラスと言えば無色透明なもの”というのが、現代の私たちにとって当然の認識ですが、当時、ガラスは無色透明ではありませんでした。
ムラーノ島の職人たちは、不純物や気泡を含まない、より透明なガラスを創り出すために工夫を凝らし、試行錯誤を繰り返します。そして遂に、1400年代半ばアンジェロ・バロヴィエールによって、水晶を模したイタリア語で〈クリスタッロ〉と呼ばれる透明なガラスが発明されたのです。
眼鏡用のレンズや鏡や窓ガラス用の板ガラスもまた、クリスタッロ職人によって発明されました。現在の私たちの生活に無くてはならない透明ガラスは、15世紀のムラーノ島で誕生しています。
それはヨーロッパの王侯貴族の憧れとなり、ヴェルサイユ宮殿を初めとする多くの館が“鏡の間”を作り、シャンデリアを飾り、その輝きの下で軽やかなグラスを傾けたのです。
しかしムラーノガラスの栄光は長くは続きませんでした。台頭してきたトルコやヨーロッパの列強を前に徐々に弱体化し、またあれほど厳重に機密保持につとめたにもかかわらず、ガラスの技法、デザインは盗用され、ガラス職人の引き抜きが横行した結果、他の国々で類似品が生産されるようになり、市場の独占は困難になってゆきました。
しかし20世紀に入り、ヨーロッパにアールヌーヴォー、アールデコと言った新芸術運動が巻きおこると、その波は小さなガラスの島ムラーノ島にも及び、一時衰退したムラーノガラスは不死鳥のごとくよみがえることとなります。
驚くべきことに、この復活を支えたのは、かつて第一の黄金期にムラーノ島でガラスを作っていた家系の人たちでした。
バロビエール、サルヴィアーティ、バラリン、セグーゾ、ヴェニーニ、バルビーニ、トーゾなど、その昔王侯貴族たちに愛された名門工房の名前が挙げられます。
彼らは、先祖の打ち立てた黄金時代の伝統のもとに生き、制作を続けていましたが、それだけでは新しい時代に対応しえないことも知っていました。
そこで、建築家、陶芸家、画家など、異分野のアーティストを芸術監督として迎え入れたのです。
「裸婦ステム杯」1929-1930年 デザイン:フィラヴィオ・ポーリ 制作:イヴァム工房
鉢「ルビー」 デザイン:カルロ・スカルパ 制作:ヴェニーニ工房
肖像小像「ゾウ」 1929-1930年デザイン:ナポレオーネ・マルティヌーツィ 制作:ヴェニーニ
グラヴィール花器「ジャズプレイヤー」 オリジナルデザイン 1930-31年 デザイン: グイド・バルサモステラ 制作:S.A.L.I.R工房
画家のサルバドール・ダリやシャガール、ピエロ・フォルナセッティ、陶芸家のフラヴィオ・ポーリ、建築家のジオ・ポンティやカルロ・スカルパと言った独創性に富むアーティストたちが、卓越した熟練のガラス職人と出会い、目を見張るような斬新で生き生きとしたガラスを爆発的に誕生させたのです。
現在もなお、ムラーノガラスは、北イタリア・ヴェネチアのムラーノ島でしか作られていない希少な工芸品として世界から愛されています。
特に欧米では〈王侯貴族が愛したガラス〉として憧れの対象であるとともに、単なる富の象徴ではなく、ヘミング・ウェイなどの文化人や知識人たちが愛したことから、歴史と文化的価値を持つ、真の芸術品として評価されているのです。
しかし、ガラス職人の仕事は想像を絶する過酷さをともないます。1000度を超える灼熱の窯から、時には大変な重量のガラスを棒の先に巻きつけ、何度も窯に入れては出して温度に気を配りながら形を整えます。
残念ながら誰でもできる仕事ではありません。体力が許しても、才能がなければ、道は閉ざされてしまうのです。
そして最も大きな課題が、いまだに世襲制を重んじていること。なんと1291年に強制移住させられた職人たちの子孫が、いまだにガラスを作り続けているのです。それは素晴らしいことですが、当然のことながら職人の数は減り続け、ムラーノガラスの希少性は増すばかりです。
大量生産されたガラス製品とは異なり、ひとつひとつ手作りのため同じものが2つと存在しません。
小さなグラスひとつとっても、色、形状、重さ、模様、気泡の入り方等、それぞれどこかに異なった点があります。
そして、得も言われぬ柔らかな雰囲気と優しさが、見るもの、使うものを、その美しさで癒すのです。